2017. 07. 31  
きっと、すべての恋はいじましさといじらしさが縒り合わさって出来ている。


『明日の子供たち(有川浩:著)』のなかの一文です。

「いじましさ」と「いじらしさ」
一字違いの言葉ですね。

いじましい
いじらしい



違う意味だけど、「意味を説明して」と言われて、ちゃんと説明できないことに気づく・・・。

で、辞書で調べてみましたら。

いじましい:みみっちい、意地汚い、あわれな感じがするほどけちくさい

いじらしい:あどけなくて可愛い、痛々しくてかわいそうな様子



全然、違うやん。
一字違いで、こんなに違っていいのかってくらい、違うやん。

「いじましい」って、あまり使わないことにも気づきましたが、
これ、他人に向かって使うには気をつけないと、というか、
ほぼ、悪口に捉えられますね。


自分で自分を揶揄するときに使うくらいかな。
「こんな努力してる私、いじましいヮ~」って。


小説では、恋に対する高校生のころの自分を思い出して、上記の表現をしていたんですけど、
そういう、「いじましい」努力をしてしまうのも、青春の一部。

カッコつけたくなる、
大人ぶってみたかった、
そんなお年頃だった(山の向こうを見るような私)。

そんな「いじましい」自分が、「いじらしい」という(笑)。



ちょっと意識して使ってみたくなった言葉でした。
でも、「いじましさ」は気をつけないとね。
相手を低く見る自分がいてるかもしれないから。
自分にだけ、使おうっと。

でもほとんどの人は、いじましさといじらしさが同居してますよね。




今日もありがとうございました。

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2017. 07. 30  
「かわいそうに」と言われることが一番嫌いです。


児童養護施設を舞台にした小説、『明日の子供たち(有川浩:著)』です。



「児童擁護施設」とは、
突然の災害・事故・離婚・病気・不適切な養育などなど、
さまざまな理由で親と住むことができなくなった子供たちが暮らす施設です。

この小説の大きなテーマは、
勝手なイメージで決めつけてしまうことの危険性です。


次のような文章がありました。

子供たちを傷つけるのは親と一緒に暮らせないことよりも、親と一緒に暮らせないことを欠損と見なす風潮だ。
子供は親を選べない。
自分ではどうにもならないことで欠損を抱えた者として腫れ物のように扱われる、そのことに子供たちは傷つくのだ。




三浦しをん氏の、『本屋さんで待ちあわせ』というエッセイにあったんですが、
その一部を紹介します。


「悲惨でかわいそう」などとステレオタイプの認識に甘んじ、彼らの生活にも笑いやたくましさが当然あることを知ろうともしなかった自分に腹が立ってきます。
無知と無関心と怠慢こそが、理解の芽を摘み、絶望と断絶を生む温床となるのだと、肝に銘じようと思いました。




人には人それぞれの事情があること。
その人たちの1日は、「かわいそう」の一言で終わるほど単純なものではないってこと。
人として当たり前にある、喜怒哀楽があり、
些細だとしても、喜びや希望につながることだってあること。
それを知った上で、適切な「じゃあ、どうするか」の行動にいくんだと。


ただ、「かわいそう」という前提を持ってしまうと、見えなくなってしまうだろうと思います。
無知と無関心と怠慢こそが、理解の芽を摘み、絶望と断絶を生む温床となるのだ。

コミュニケーションの基本でもありますよね。


重いテーマを扱う『明日の子供たち』ですが、全体としてはとても爽やかに読み進めます。
なぜなら、悪い人が1人も出てこないから。

意見の食い違いや衝突はあります。
でも、みんな自分の立場や考えがあってのことで、
決して、自分一人の得のために行動してる人がいないんです。

そこが、いい。

この重いテーマに悪い人が出てきたら、げんなりするだけだから。

みんなが、子供は自分の将来のことを、大人は子供の未来のことを、
良くなるように、それだけを願って行動していく姿は、とても爽やかで清々しかったです。


「児童養護施設」の現状などに興味のあるかたは、ぜひ読んでみてほしいなって思います。
こういった施設で働くことに、情熱を持ちすぎる人にも読んでいただきたいな。
介護施設とかもそうなんですけど、
あまりにも理想的に、「家族のように」接して、と意気込むと、
ある日突然、ポキッと心が折れて、退職してしまいます。
そのあたりの、家族のようには出来ないこと、福祉のプロとはどういうものか、
そういったことも学べると思いました。






今日もありがとうございます。

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2017. 07. 29  
先日の「土用の丑の日」で調べたついでに分かったことがあるのでお知らせします。
*ちなみに、今回は吉報ではありませぬが、ご容赦願います・・・。


ネットにあったんですけどね、

トノサマバッタという名前をつけたのは、平賀源内だ。
だいたいのことは平賀源内がやっている。
土用の丑の日を作ったのも、
万歩計を作ったのも、
自動車を作ったのも、平賀源内だ。




源内さん、本当にいろんな発明やってますね!











信じますか?


「ネットに書いてあればそれが答えだと思い込む。
ってことはだ。
それを利用する手はあるよな」



『サブマリン(伊坂幸太郎:著)』のなかのセリフです。

今や、ネットで検索すれば何でも分かる世の中。
便利です。

しかし、それが嘘の情報だったら?
それが嘘だと分かりますか?


インターネットが出来た頃は、
「こんなに素晴らしいものが!!」だったんですが、

今では、
「嘘もいっぱいあるから、見分けないとダメじゃん・・・」に。


そう、
知りたくて検索して調べた答えが、
正しいのかどうか、
自分で調べなくてはいけません。


でもこれ、
当たり前にやっていたことに戻っただけなんですよね。
ちょっとの間、さぼっちゃったから、
騙されたような気分になるだけで。


ネットの答えだけが正しいと思い込まないように、
コロッと騙されてなるものか、ということは忘れずにいたいですね。





さて、
『サブマリン』は、エンターテイメント小説です。
面白いです。私は伊坂幸太郎氏の作品は大好きなので、これもお勧めです。


面白く読めますが、テーマは重たいことを扱っています。

「悪いことをする人を、やっつけたらダメなの?」というものです。


子ども用のアニメやヒーロー物は、問答無用で悪者が退治されますね。
それとは別の世界。

他人を脅迫している人を脅迫することは、罪になるの?

無免許運転で人を死なせてしまったとして、その死んだ人はこれから人を殺しにいくつもりだったとしたら?
どっちが悪い人なの?



こういったことが、軽やかな展開のなかで繰り広げられています。
登場人物の1人・陣内さんのめちゃくちゃ論理に笑わされながら。


『チルドレン(伊坂幸太郎:著)』の続編となっていますが、
読んでいなくても大丈夫。
読んでいたら、さらに面白く読めます。



今日もありがとうございます。
万歩計を作ったのは、平賀源内です。

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コメント欄閉じます。
ネット環境のせいか、「fc2.comは応答していません」とか、青いわっかがぐるぐるぐるぐる回りつづけたり。
どうも調子がよくありません。
2017. 07. 28  
夏といえば、「怪談・幽霊・心霊写真」なども風物詩のひとつでしょうか。
私は、超苦手です。


ホラー映画って、本当に怖いですね、ここ数年のものは。
予告からして、怖い。
「リング」、観てません。貞子さん観れないです。


幽霊といえば、お決まりのポーズというか、姿がありますね。

手を前にだらんと出して、足がなくて・・・




泥があるから、花は咲く』を読んでいたら、幽霊の特徴というものの章がありました。

幽霊にある、3つの特徴


1、おどろ髪をうしろへ長くひいている
2、両手を前へ出している
3、足がない



そして、この特徴それぞれに、意味があるというのです。


1、髪を長くひく

済んでしまってどうにもならない過去のマイナスを、いつまでもぐずぐずひきずっている。
どうにもならないことをいつまでもひきずり続け、
心がうしろにばかりとらわれている。
これを、おどろ髪を長くひくという形で表している。
(おどろ髪=ぼうぼうに乱れた髪を指す。「おとろし」という髪の乱れた妖怪が語源)



2、両手を前へ出している

くるかこないかわからない未来を取り越し苦労して、
こうなったらどうしよう、ああなったらどうしようと、生きる姿勢が前のめりになっている姿を表している。



3、足がない

生きるということは今、この一瞬でしかない。
その一瞬を心が過去へ未来へと飛んでしまう。
あるいは、心があの人やこの人のところへ、違う場へと飛んで行って、今ここを取り逃がし続けているありさまを表現している。



今をちゃんと生きていない姿が、幽霊というわけですか。
こんな意味があって、あの姿だったとは・・・。


過去や未来に重心がいって、今この足元が浮いてしまう。
気に入ったことを追いかけ、気に入らないことからは逃げ、
思うようにいかないと落ち込み、
姿勢がつねに崩れる。




生きてて幽霊っぽいことになっていないだろうか・・・。
過去をひきずり、未来に重心を傾けていないか。
姿勢がまっすぐじゃないと、幽霊になってしまうのです。


今日、ただ今に取り組む、ここを正念場として姿勢を正す。

幽霊からも、学べますね~。






今日もありがとうございます。

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2017. 07. 27  
ぼくはいのちのかたまりです    佐々木維

ぼくはいのちのかたまりです。
これがなかなか複雑で、
けっこううまくできている。
数十兆個の細胞が
それぞれ図面を持っていて、
きょうもぼくをつくってる。

図面の半分、パパからもらった。
だから、ぼくは足が速い。
残りの半分、ママからもらった。
だから、ぼくは一重まぶた。

瞳にうつる、光と影。
鼓膜をふるわす、空気の振動。
鼻くうに飛びこむ、においの粒子。
途切れることない
「世界」からのサインが、
指令塔に向かってかけぬける。
時速350キロのスピードで。

大気を吸いこめ、その肺に。
酸素よ溶けこめ、血液に。
拍動をくりかえすぼくの心臓が、
体のすみずみまで、それを届けるだろう。

筋肉よ収縮せよ。
骨よアングルをかえろ。
さあ前へ、さあ前へ。
ぼくは一歩前へふみだす。

二本の足で大地に立ち、
背筋をのばして前を見る。
言葉を使ってきょうを語り、
リズムにのせてあしたを歌う。

ぼくはぼくを「ヒト」と呼ぶ。

ぼくはいのちの連なりです。
数十億年の時を超え、
「未来」という名の明日を待つ、
そんないのちの一つです。

きみがそうであるように。





看護学校で、一番初めに習ったことは、
「看護概論」と、「解剖学」でした。

その解剖学を思い出した詩です。

ヒトの体って、ひとつずつ全てに名称がついていて、どれもずっと働いています。
手首に骨が8個もあって、その一つ一つに名称があり、「それ、テストに出るかもね」なんて言われて「どんだけ覚えなアカンの・・・」と驚いたあのころ。

失くしてからやっと大切だったと気づくのか。
それではもったいなさすぎます。

ぜんぶ大事、そしてぜんぶ使ってあげないと。
体のひとつひとつは、正しく使ってもらいたがっているんですよね。

オーバーワークがダメなことはみんな言うけど、使わないことにはあまり目くじらをたてない。
「骨惜しみするな!」って、聴かなくなったなあ。


『99歳ちりつもばあちゃんの幸せになるふりかけ』に、
「自分の力を出し惜しみする」ことは、命を粗末にすることや。
という教えがありました。




せっかくもらっている力を、力の通りに使う。
そうじゃなければ、粗末にしていることになるって。


ちょっとビックリしましたね。
粗末にしてるつもりなんてないけど、そういわれると、出来ることをなにかと理由をつけてしないことがあるかもなあって思いまして。
「ここで無理したらアカン」なんて、都合良く解釈して、ホントは無理するほどじゃないことをやらないとか。
あるかもなあって。


子どもは、いのちのかたまり。
大人だって誰だって、死ぬまでいのちのかたまりです。

使わず腐らせたらもったいない、自分のちょうどいい働きで、体を使ってあげたいです。


100点は無理かもしれん。
でも、MAXなら出せるやろ。

           (松本人志)



ウチの長男も、今日から夏休みです。
「毎日寝坊してもいいの!?」と勇んで訊いてきました(笑)。
動け動け!

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2017. 07. 26  
『ほぼ日刊イトイ新聞の本』のなかで、これは気をつけたいと思う箇所がありました。




「せっかく」と「がっかり」の係り結びは禁止する。



これは、ほぼ日サイトにくるメールでよく見かけていたそうなんですが。

せっかく応援していたのに、○○だなんて、がっかりです」

こんなメッセージメールがよくあったそうです。
ようは、「応援してくれる仲間を傷つけてしまったんだぞ」という気持ちをぶつけてきているもの。


これをされると、キツイんだ、と糸井氏はおっしゃっているのです。

相手は善意の被害者、
こちらは期待を裏切った加害者。


この構図では、こちらは逃げ場がないんだよ、って。

そしてこういうことは日常生活にもありがちなんですよね。
私の場合だと、子どもに、でしょうか。


「せっかくアンタのために買ってあげたのに、もう壊して・・・がっかりやわ」


こんな風に。
言いたくなるし、言ってるかもしれません・・・。
「がっかり」まで言わなくても、
「せっかく」と「してあげたのに」がかかっていることは多い。
言わないように、とは思っているけれど、もしかしたら言ってるかも、と思うと、ちょっと恐怖です。


この、
「せっかく」と、「がっかり」は、
相手を自分より下に見ているときに出やすいんじゃないでしょうか。


本のなかでは、
「読者は神様じゃない!」とあります。

「読者を大事にすることと、読者を神様あつかいしてしまうことは、まったくちがう」と。

サイト運営側からですから、こういう表現ですが、
意味は反対ですが同じことだと思います。


これも糸井氏の言葉ですが、
みんな、「ましになっていこう」としている者共です。

人と人としての関係を築いていこうと思っているだけなはず。



ブログのコメントにも言えるかな。
私は今まで温かいものや、新たな視点をもらえるコメントばかりで、1度も不愉快な思いをしたことはないです。
それはすごくラッキーなことだったのかもしれません。
中には、自分の思いを綴っただけなのに、「その考え方はおかしい」みたいなことを書く人だっているらしい。

コメントを入れるとき、ちゃんと相手のブログを書いてる人を想いながら書かないと。
私も、ましになろうとしている、
そしてパソコン画面の向こうには、自分と同じように、「ましになろうとしている」人がいるってことを、
本当に想わないと。

それぞれの思いにダメ出しできるような、そんな神様目線など・・・
「私はこう想うけど、どう?」と提案することと、否定することはまったく違いますもんね。
そんなことを、気持ちが引き締まるような思いになったのでした。


今日もありがとうございます。
「ましになろうとしている」私に、いつも優しい訪問者のかたがたへ、
深く感謝しています。
これからも、のんびりお付き合いくださいね。

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2017. 07. 25  
土用の丑の日」が今日、25日ですね。
よし!
今夜はうなぎや!
子どもはうなぎ食べへんから、手巻き寿司にしようかな!!

やはり日本の季節行事は大切にしないと・・・
という気持ちもありますが、
実は、こういう季節行事のときは、献立を考える手間が減るので嬉しいのであります(笑)。


「土用の丑の日にうなぎを食べる」を作ったのは、平賀源内
発明家、エレキテルという言葉と一緒に覚えている人。


その平賀源内が、素敵な言葉を遺しているんですよ~。

「考えていては何もでき申さず候。われらはしくじるを先につかまつり候」


考えているだけでは何も出来ない。
行動して失敗することをしなければ何も達成することは出来ない。


こういう意味でいいでしょうか。
でも、元々の言葉のほうが、断然カッコいいです。

さすがは、「日本初のコピーライター」という肩書きをもつだけあります。
ムダな言葉がなく、ピシッときまってます。


考えていては何もでき申さず候。われらはしくじるを先につかまつり候。


夏にうなぎ屋さんの売り上げが上がらないことから、
「今日は土用の丑の日」と源内が書いた看板を掲げて始まった、うなぎを食べる習慣。

適当にやったにしては習慣として残りすぎです。
それは、
うなぎには本当に栄養がいっぱいつまっていて、夏の暑さを乗り切るには絶好の食材だから。


うなぎに含まれている主な栄養は、

ビタミンA:視覚に働く、胃腸病や風邪の予防に効果がある
ビタミンB1:疲労回復
ビタミンB2:細胞の再生と成長
ビタミンE:老化防止

その他、カルシウムや鉄分なども豊富です。

平賀源内のマルチな才能にもあやかりたい(笑)。
しっかり食べて、しくじることから始めてみたいですね。


「考えていては何もでき申さず候。われらはしくじるを先につかまつり候」




今日もありがとうございます。
最近じゃ、うなぎじゃなくても、「う」のつくものならOK!みたいになってるようですね。
「うどん」とか、「牛丼(うし、だから)」とか。
まったくもって意味不明ですが、おもしろいだけだから、いいなあと思います。平和ですね~。

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2017. 07. 24  


海を見て、泣いた。
涙が出た。
もう、災害などないよう
人を流さないで・・・。
そのためには、
生き残った者が、
海をきれいに・・・
地球をきれいに・・・
美しい海をまた、見たいから。





叫び、そして望み

あんだけ雨が降り、風が暴れ、波が叫び、
次の日はお天気に・・・
ヘリの音、そして、海辺にカモメが、飛んでいる。
海は、天希を望むかのように光って、見えた。




上記2つの詩は、『海をうらまない(佐藤啓子:著)』からの抜粋です。




震災ポエム」と副題がついています。
すべて、東北大震災直後からの想いを詩にされているものを集めた詩集です。


詩を書いている佐藤さんは、1978年、岩手県生まれ。
軽度知的障がい者です。
現在も岩手県山田町にあるケアホームに入所されています。

震災時は、高台にあるケアホームの掃除をしていて、
部屋の隅っこまで吹っ飛んでしまったそうです。


どうにか無事に避難はできましたが、ホームは全壊しました。
そして、それまでに書きためていた詩のノートは全て流されました。


それでも、避難所でノートとボールペンを支給されたその日から、
誰かの心に元気を与えられるように、と詩を書き始めたそうです。


まっすぐな想いが伝わってくる詩。
ぐっときました。

普通の人でも、あれだけの災害に見舞われたら平常心ではいられないでしょう。
まして、障がいがあるなら、
もっと神経は擦り切れ、情緒不安定になります。

実際、詩集のなかにも、施設のスタッフに迷惑をかけてごめんねと謝っているものもあります。
自分をなだめるだけでも大変なことだっただろうと想像すると、
この優しさは本当に素晴らしいなあって思います。


どんな人も、誰かを想って、誰かの役に立つことができる。
じゃあ、私は?
私は何ができるんだろう。
そう自問しつつ、「やってやろう!」という元気も出てきました。

最後にもう一つ詩を紹介して終わります。


この地球に桜あり・・・

いつまでも、こわいと想えば変化なしだよ。
地球に、海に、桜の地。
海の地に、桜の木が、あるといいな・・・。
芽は、出てくるよ。
地球に、海に、桜あり を信じて・・・
こわいと思わず
全国のみなさん
そして、山田のみなさん、頑張ろう




さあ、今日もがんばりましょう!

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2017. 07. 23  
夏の暑い時期に必ずといっていいほど見るニュース、「子ども放置で熱中症」
子どもを車のなかに置いたまま、何時間もパチンコをしていたら、子どもが熱中症で死亡してしまった。
類似の件はいっぱいありますよね。

最近では、両親が子どもをマンションに置いて、ホテルに行き、
帰宅すると子どもが死亡していた(熱中症かどうかは不明)・・・というものもありました。


こういう親のことを、「毒親」というそうですね。

虐待、ネグレクト(育児放棄)などなど・・・。
こういう、子どもを死なせるほどのことをしていなくても、毒親と呼ばれることもあります。

過干渉な親 です。

子どもの就職先を一緒に探す、入社式について行く、欠勤の連絡を親がする。

今どきの親は、子どもの授業参観に行って、自分の子どもに横から教えているそうです。
先生、前でしゃべって授業してるのに。
教育のプロが授業してるのに。
それにも関わらず、親が堂々と子どもの席まで来て、ああだこうだと指導してるんですって。

ウチの子の授業参観では、そんなことしてる人いなくて、よかった・・・。


わが子かわいさが、そうさせるんだろうけど。
ちょっと違うと思うんですよね。

それは子どもの人生に口を出しすぎで、子どもの意志はどこにあるんだろうってなるんじゃないかなと。
大事にするのは当然だし、それは素晴らしいことだけれど、
過干渉も、やっぱり「毒」になる。

親の願うような人生を歩んでほしいという気持ちが、過干渉になるのかな。


でも、
子どもが「楽しい」と言って、
「やりたいことがある」状態。

これが親のいちばんうれしいこと。


そうでなければ、歪んだ愛情になると思う。
親の喜ぶことをする子どもは、幸せなのかどうか。


卒母宣言」で話題になった漫画家の西原理恵子氏の、
『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』のなかで、
次のように書いておられます。


 
船出の時なんだから、私が見送らなくってもいいだろう。
夢なんか、そうそうかなわない。
夢をつかむことより、たとえ夢破れても、そこから立ち直ることの方が大事。
転んでもいいから、また、顔をあげる、そういう女の人になってください。
私は、いつも、ここにいる。
ドアは、いつでも開いてるよ。



あとがきでも・・・

どんな時でも、次の一手は、自分で考えて、自分が選ぶ。
王子様を待たないで。
幸せは、自分で取りに行ってください。



これを目指したいなあ。
子どもが失敗しても、ぐっとこらえて黙っている。
でも落ち込んで「休みたい」と帰ってきたら、いつでも戻ってこられる。

そんな母でありたい。



10代からOKの本。
男の子をもつ母親も大丈夫、というか、やはり考えさせられる内容です。



今日もありがとうございます。

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2017. 07. 21  
人間は、何ごとも測らずにはいられないようです。

『はかりきれない世界の単位(米澤敬:著)』を読みました。




近代化とともに使われなくなった、人間味あふれるちょっとおかしな単位を50紹介。
新しい物差しを手に入れると、世界の見えかたが変わるかもしれません。


本のトップにはこのような文章がありました。

そう、「おかしな」単位が50個。
どのようなものか、一部を紹介します。


ハナゲ:痛さの程度をあらわす単位
 1ハナゲは、長さ1cmの鼻毛を鉛直方向に1ニュートンの力で引っ張り、抜いたときに感じる痛み


ムゲセゲレ:ドイツ南部で使われる、「とても小さい」ものを示す単位
 意味は、「ハエのペニス」。約0,22mm。


刹那(せつな):仏教の最小時間単位。「念」ともいっていた。
 1刹那は、75分の1秒。


浣(かん):古代中国の沐浴に由来する日にちの単位
 1浣は、1ヶ月の3分の1、約10日。


トラサレーヌ:古代インドで使われていた、日光のなかに浮遊する塵の量の単位
 1トラサレーヌは、クリーシュナラの1296分の1。
 1クリーシュナラは、122mg。


分かりにくい。
とにかく、分かりにくい。

これ、どうやって使うの?って単位なんですが、例文もありました。

ムゲセゲレなら、
「隠し味には、塩とコショウをムゲセゲレ」

とか、

トラサレーヌなら、
「今日のそうじで払った塵は、何億トラサレーヌだろう?」

というふうに。


想像もつかないものも測ってます。

ギャラクシーは、
銀河の質量単位で、太陽質量の1,6倍×10の11乗倍。

1秒間に伸びる髭の長さをあらわすには、
5~10ナノメートルが1髭秒、など。


前書きにもあるんですが、

測れないものを測ろうとして、さらに分かりづらくなっているんですよ。
もう、測らなくていいじゃん!ってものを測ろうとしてるんですよね、昔の人たち。


でも人は、とにかく測りたいんだなあって思いました。
モノだけじゃないですよね、今は。

知能だって数字であらわすし、
心の点数だって出していきます。

余談ですが、心の点数=EQ というやつ。
あの点数、自己診断ですが私はけっこう低いです。

健康診断だって、
なんともないと思ってるのに、いきなり
「血液検査でこの数値がひっかかったので精密検査をしましょう」なんて言われたら、
「なんか、深刻な病気があるのか?」と不安にもなります。


逆に、どう考えても体調がよくないのに、
「検査の結果、なんともないですよ~」なんて言われて、
「へ?」 みたいな。


「私と仕事、どっちが大事なの!?」なんていうのも、測ろうとしてますよね。


人はとかく測ろうとしたがるもの。
でも、そこには、ああでもないこうでもないと奮闘する人たちも想像できて、
人間って、バカバカしいけれど愛おしいところが多いなあって。

だって、ハエのペニスの長さを真面目に測る科学者がいたってことですよ?
アホでしょ?
でも可愛い(笑)。
今なら研究予算なんて出してくれないんじゃないですか、「そんなもの!」って。


トナカイの角が見分けられる距離、「ブーク」の次ページに、

核による殺傷単位、「メガデス

なんて載っていると、
近代に進むにつれて、人の愛おしいところが少なくなってきているように感じました。


この本は、不思議な雰囲気に包まれています。
全ページがカラーで、絵がメイン。
そしてちょっと1行詩のような文章も。

刹那」のページなら、
「またたきする間に、世界がひっくり返ることもある」


正常人の嗅覚度をあらわす単位、「オルクアクティー」なら、
「においはうつろい、単位もうつろい、消えてゆく」


こんな感じで。

大人の絵本としてもいいですし、雑学の本としても捉えることができます。
でも、飲み会でこのウンチクを披露しても、
「何言ってんのか、わかんない」と相手にされないかもしれませんが。


現代の人が置き忘れてきた何かを、見ることができます。




今日もありがとうございます。

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プロフィール

馬場亜紀

Author:馬場亜紀
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本の中の心に刺さる一文をご紹介いたします。
看護師免許をもっていますが、今は保育の仕事をしています。自身の子育ても真っ最中。
くわしくは「自己紹介」をご覧いただければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします☆

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